The Notorious B.I.G.とは?HIPHOP史上最も有名な事件の犠牲となったMC【後編】

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nekuradjです。

 

 

前回に引き続きThe Notorious B.I.G.ことBiggie Smalls(以下:Biggie)というMC(ラッパー)の生涯を追った記事を書かせていただきます。今回は東西抗争の幕開けとなってとなってしまう「ある事件」の話と、当時誰もが予想していなかった結末まで話していきたいと思います。

 

 

まだ前編を見ていない方はこちらから先にご覧ください。

 

 

 

2pacとの交友

 

前編も書いた通りBiggieは「Ready To Die」のアルバム制作中に出会った2pacと親交を深め、互いが互いの自宅に泊まったり、酒を交わしギャンブルをして遊んだりとそこには確かな友情があったと周囲が話すほど良好な関係を築いておりました。

 

 

Biggie & 2pac

出典:playatuner.com

 

 

2pacを慕う若手ラッパーが多くいる中で、特にBiggieは可愛がられていたと言います。2pac自身もBiggieのラップから影響を受けている部分もあったといい、交遊していく中でBiggieは自分に対し音楽やビジネスの観点から様々なアドバイスをしてくれる2pacに憧れを持ち、一時期は「2pacなら俺を更にヒップホップスターへと押し進めてくれるのではないか」と考え「俺のマネージメントをしてくれいないか?」と誘ったという話もあります。しかし2pacは「それは違う、お前はパフィー(ショーン・コムズ)の側に居ろ。あいつならお前を必ずスターにしてくれる。」と言いBiggieのマネージメントの依頼を断ったといいます。

 

 

 

2pacの人生観を変えてしまった「ある男」

 

この頃、2pacは映画(ビート・オブ・ダンク)の撮影で、ニューヨークのクイーンズを訪れていました。この映画で2pacはストリートバスケを興じるギャング「バディー」という役を演じ、このキャラクターは実在した「ハイチアン・ジャック」というニューヨークの裏社会で絶大なる権力と巨額の富を得ていた人物をイメージしていたといわれます。

 

 

2pacは後にマンハッタンのクラブでハイチアン・ジャック本人を見かけ、知人から彼を紹介してもらい、交友を深めていったそうです。ハイチアン・ジャックは地元を支配するギャングやセレブを次々と2pacへ紹介していきます。広い交友関係や高価なジュエリーを身に付けたハイチアン・ジャックに2pacは完全に魅了されるようになっていきました。

 

 

Biggieらももちろんハイチアン・ジャックの存在は知っていたものの、あくまで裏社会の人間だということで近づこうとはせず、2pacにも「ヤツは危ないから距離を置いたほうがいい。」と忠告をします。しかし2pacはハイチアン・ジャックに完全に魅了されており、その時は全く聞き耳を持たなかったといいます。

 

 

2pacは裏社会のボスと多くの時間を過ごしたことで「自分は無敵だ」と過信するようになり、それからというもの高価なジュエリーを買い漁り、好きなところに行っては好きなだけ豪遊するという日々を送るようになっていきます。

 

 

しかしそんな豪遊も長続きせず、2pacには問題も山積みで、家族や親族の養育費に加えて過去起こした事件の裁判(弁護士)費用などがかさみ、口座は次第に枯渇していきます。そこで2pacは以前からオファーがあったBiggieらと親しいリトル・ショーンというラッパーの作品へゲスト参加をすることを決めます。この仕事で2pacへのギャラは7千ドルだったと言われております。

 

 

 

襲撃事件

 

1994年11月30日、2pacはリトル・ショーンと仕事をするために、ニューヨークのタイムズスクエアにある「クワッド・レコーディング・スタジオ」へと向かいます。スタジオ前へ着くとBiggieの仲間であるリス・シースが上階から現れ「Biggieは上で録音している、パフィー(ショーン・コムズ)も一緒だ。」と叫び、2pacはそれを聞いて安心します。建物に入るなり、2pacの視界には軍服を着た男たちが見えましたが、彼らの軍服姿がBiggieの出身であるブルックリンスタイルであったため、こいつらもきっとBiggieの仲間だろう。と特に気にせずエレベーターに乗り込もうとします。

 

 

しかしエレベーターに乗り込もうとした瞬間、その軍服の男たちが突然2pacと一緒にいた仲間へ銃口を突きつけ床に伏せるよう命令します。2pacはとっさに自分の持っていた銃を抜こうとしましたが、命令に従わなかった2pacは軍服の男たちに撃たれてしまいます。2pacは計5発の銃弾を受け、身に付けていた金品を奪われてしまいます。かろうじて意識が残っていた2pacは軍服の男たちが立ち去るまで死んだフリをしてやり過ごします。その後自力でBiggieらのいるスタジオへなんとか辿り着き、Biggieやショーンの助けがあり一命を取り止めます。

 

 

この襲撃事件をきっかけに2pacは「Biggieらが関与していたんじゃないか、あいつらは俺を陥れようとしているのか」と勘繰るようになっていきます。ただ、この事件の捜査を担当したニューヨーク警察の元警察官ビル・コートニーは「メディアを使って度々ハイチアン・ジャックという裏社会の人間の名前を出したことで報復を受けたのだろう。」と推測しています。確かに2pacは過去の事件などでハイチアン・ジャックが関与していると度々メディアに訴えかけていたそうで、今回のリトル・ショーンの作品へのゲスト参加も元はハイチアン・ジャックが関係していたことから「名前を出すな。」という意味で襲撃(報復)が起こったのではないかという説もあります。

 

 

 

東西抗争の幕開け

 

2pacは襲撃事件後、他の事件での裁判で禁固刑を言い渡されます。このとき既に2pacの口座は枯渇しており、保釈金も集められなかったため、ニューヨークにあるクリントン・コレクショナル・ファシリティ刑務所で約1年間過ごすことになります。

 

 

服役中の2pacはとにかく金が必要であったため、服役中に結婚したケイシャ・モリスを通じてロサンジェルスを中心に活動するDeath Row Records(以下:デス・ロウ)のCEOであるシュグ・ナイト(以下:シュグ)へ「金がないから助けてほしい」とメッセージを送ります。悪評高いデス・ロウのシュグはこの手を付けられない問題児ラッパーを獲得するまたとないチャンスと考え、すぐにニューヨークへと飛び、2pacと面会します。2pacは自分のせいで生活が苦しく、家も売ってしまっていた母親に再び家を買ってやりたい。とシュグへお願いします。シュグは「任せろ」といい、更にデス・ロウで音楽活動をするという交換条件の下、2pacを釈放させる手続きに入ります。

 

 

別な日の面談では2pacはお金の相談と同時にBiggieらとの関係もシュグに話し「ヤツら(バッド・ボーイ)に復讐をしたい」と相談します。それを聞いたシュグは面会直後にマディソン・スクエア・ガーデンで開催されたThe Source主催のヒップホップアワードへ出席します。(1995年8月)

 

 

そのヒップホップアワードでデス・ロウの楽曲がベストサウンドトラック賞を受賞しシュグはその受賞の際、壇上でいきなりバッド・ボーイに向けた暴言を吐きます。

 

 

「どんなアーティストもアーティストのままでいるべきだ。ビデオの中でダンスなんかして出しゃばるプロデューサーに思い悩む必要はない。アーティストやスターに憧れるヤツはとにかくデス・ロウに来い!」

 

 

紛れもなくショーンやBiggieらバッド・ボーイへの報復の第一歩でした。しかし式に参加した多くの関係者はそんなことはもちろん知らないため、なぜシュグが授賞の場ででいきなりあんな発言をしたのか困惑し、その瞬間会場は非難(ブーイング)に包まれます。

 

 

シュグ・ナイトがバッド・ボーイをDISした受賞スピーチの映像

 

こうしたシュグの発言で東西抗争の幕は開かれ、後に釈放された2pacはBiggieらと完全にBEEF(=HIPHOP用語で「喧嘩」や「揉め事」)の関係に陥り、溝が深まっていくことになります。

 

 

 

東西抗争でのDIS音源合戦

 

シュグの発言を受け、同会場にいたバッド・ボーイのメンバーは「気にするな」と互いを落ち着かせます。実は2pacのシュグへの復讐協力依頼の他にも、The Sourceのヒップホップアワード後、シュグのボディーガードがショーンの側近に撃たれ死亡するという事件もあり、シュグはこれを「ショーンが計画したことだ。」と訴えており、ショーンはこれに対し言及はしておりませんが、東西抗争はこれによりさらに拡大していくことになります。

 

 

ヒップホップアワード開催の翌月(95年9月)シュグはデス・ロウとの契約を約束した2pacを釈放させるため多額の保釈金を工面する間に、さっそく東海岸勢へ当てたDIS音源を1発リリースします。

 

 

New York, New York / The Dogg Pound
 

 

 

デス・ロウからの刺客ドッグ・パウンド(The Dogg Pound)スヌープ・ドッグ(Snoop Doggy Dogg)を客演として参加させた曲「New York, New York」です。PVはニューヨークの街中で撮影されたもので、スヌープがニューヨークの摩天楼を蹴り倒すシーン(もちろんCG)があったり、フックでは「ニューヨークに来たら騙されるぞ」とおちょくり、ニューヨークをなかなか馬鹿にした内容になってます。

 

 

これに対し翌年(96年)には、東海岸からのアンサーソングがリリースされます。

 

LA, LA / Capone-N-Noreaga

 

 

ニューヨークのCapone-N-Noreaga(カポーン・アンド・ノリエガ)モブ・ディープ(Mobb Deep)トラジディ・カダフィ(Tragedy Khadafi)を客演に迎えた「LA, LA」をリリースします。PVではLAのラッパー役の男たちが東海岸勢に拉致られるという、こちらもかなり過激な描写が描かれた内容になってます。

 

 

そしてデス・ロウと契約し、いよいよ保釈された2pacは96年2月にデス・ロウから1枚目のアルバム「All Eyez On Me」をリリース。このアルバムは東西抗争の渦中にいたこともあり900万枚以上のセールスを記録します。そしてその勢いのまま同年6月には東海岸を完膚無きまでにこっ酷く扱き下ろしたDIS曲「Hit ‘Em Up」をリリースします。

 

 

Hit ‘Em Up / 2pac

 

 

シャウトでいきなり「Bad Boy Killer!(バッド・ボーイを殺す奴)」と始まり、Biggieをはじめショーンやリル・キム(Lil’ Kim)へのDIS、Biggieの嫁のフェイス・エヴァンス(Faith Evans)と寝たことなど、バッド・ボーイ周辺を所構わずDISした内容になってます。

 

 

しかし、それに対しBiggieは特にアンサーソングを出すことはありませんでした。おそらくこの事件の早い終息を願っていたこと、そして発端となった襲撃事件に自分たちは関与していないという意識からだと思います。

 

 

ただ2pacのHit ‘Em Upリリース後、BiggieはJAY-Zのデビューアルバム「Reasonable Doubt」「Brooklyn’s Finest」という客演として参加した曲中で「If Fay’ had twins, she’d probably have two Pacs (uh!) Get it? Tu… Pac’s?(=Faithに双子がいたら、2つのパックだな!えっと、分かる? 2Pacって事?)」と言葉遊びをしたリリックがあります。

 

 

Brooklyn’s Finest / JAY-Z

 

 

これを聴いたリスナーは間違いなくBiggieが2pacをおちょくってると認識したと思いますが、実際のところこの曲がレコーディングされたのがHit ‘Em Upの発表前だったということもあり、実際に2pacに当てたものかは定かではありません。

 

 

こういった音源のリリースにより、メディアが大いに注目することでリスナーはそこに興味を持ち、結果その曲が売れて金儲けが出来てしまう。という完全なるビジネス視点で東西抗争は煽られ皮肉にも盛り上がっていきます。結果音源のビーフを飛び越え、実際にギャング団なども巻き込んだ抗争へと発展してしまいます。

 

 

東西抗争の真っ只中、実は96年に行われたアワードでBiggieと2pacはバックステージにて再会しています。この時Biggieは落ち着いた口調で「何が問題だったんだ?話してくれないか?」と2pacに聞くと「レコードを売るためだよ。より多く売るためにやってるんだ。」と返したといいます。これを受けBiggieはレコード売るためならと、この抗争については引き続き静観することを決めたそうです。

 

 

しかし、当時者やリスナーの意図していない形でこの抗争は終息を迎えることになります。

 

 

 

2pacの死後

 

1997年9月7日、2pacは友人の誕生日を祝うため、そしてこれも友人であるMike Tyson(マイク・タイソン)のボクシングの試合を観戦するため、ラスベガスを訪れます。試合観戦後はシュグの運転でシュグが所有するクラブ「662」へ2pac一行は向かいます。

 

1997年9月7日 試合観戦後に撮られた1枚

出典:combat

 

 

その途中、信号待ちしていたところに白のキャデラックに横付けされ、計13発の銃弾が2pacの乗っていた車へ発砲されます。その内2pacは4発を被弾。病院へ搬送されるも6日後の9月13日に2pacは帰らぬ人となってしまいます。

 

 

この時もちろん容疑者としてBiggieの名前が挙げられましたが、その日はアルバム製作のためスタジオにこもっていたということで容疑を全面的に否定しています。

 

 

これまで東西抗争については静観を続けていたBiggieでしたが、この事件を機に大きな衝撃と共に「次は自分がやられるんじゃないか」と、さすがにここまでくるとこの抗争について無視できないようになります。この当時、流行っていたMTVのヒップホップ番組「Rap City」のインタビューで2pacの死について質問されたBiggieは「今までで一番ショックを受けた。2pacはどれほど強い男だったか俺は知っていた。だから銃弾を受けたと聞いて、またか。と思ったが、死んでしまってはもう帰ってこない。俺たちはこれからも歩き続けていく必要がある。」と語っています。

 

 

Rap CityでのBiggieのインタビュー映像

 

 

 

ロサンジェルスへの訪問

 

Biggieはセカンドアルバムの製作を終え、この東西抗争の完全なる終息を目的に、敵地であった西海岸のロサンジェルスに足を踏み入れ、プロモーション活動を行うことにします。(ロサンジェルスは2pacが活動拠点に置いていた場所です。)

 

 

1997年3月7日、Biggie一行はロサンジェルスで開催されたSoul Train Music Awardsへ参加をします。この時Biggieは客席から予想通りのブーイングを受けることになります。

 

 

しかし翌日(3月8日)もプロモーションのためパーティに参加したBiggieらは衝撃を受けます。昨日のアワードとは違い、お酒も入っているせいか、観客たちはBiggieのパフォーマンスで大盛り上がりを見せたのでした。気付けばBiggieが中心となってパーティは大盛り上がりし、ここは本当にロサンジェルスなのか。と思わされるような空間が実現したのでした。Biggieはこのとき完全に肩の荷が下り、気を良くして8曲ものラップを披露したといいます。このパーティはあまりにも観客の数が増えたため、消防局からパーティを中止するようにと伝えられます。

 

 

Biggieらは大仕事を終え、誰もが東西抗争の終息の大きな一歩を踏み込んだと思いました。そしてホテルへ向かうため車へ乗り込み、満員だった会場を後にします。

 

 

完全に安堵しきっていたBiggie一行がホテルへ向かう途中、信号待ちをしていたところ、急に黒塗りのインパラに横付けされ、助手席に乗っていたBiggieへ向けて計4発の銃弾が発砲されます。その内の1発がBiggieの心臓を貫通。これが決定的となり、翌3月9日にBiggieは24歳という若さでこの世を去ります。

 

 

Biggieの死後

 

奇しくも2pacと同じくDrive By Shooting(=車に横付けされて銃撃されること)で命を落としたBiggieでしたが、彼らの死には共通点や謎が非常に多く、未だ犯人も捕まっておらず、迷宮入りしてしまっていることでも有名です。(抗争が絶えなかったため、犯人もすでに亡くなっているとの噂もあります。)

 

 

Biggieの遺体は彼の地元であるニューヨークのブルックリンへと帰され、葬儀が執り行われました。その時の映像が残ってましたので以下に貼っておきます。

 

 

Biggieの葬儀の様子

 

 

Biggieの音楽を愛し悲しむ者、暴動を起こす者など、さすがヒップホップスターと言わんばかりの人集りです。ブルックリン以外からも葬儀に訪れたファンは多いでしょうけど、どれだけBiggieが地元で愛されていた存在であるかが分かる映像だと思います。(なんかもうお祭り騒ぎって感じですよね。)

 

 

そしてBiggieの死後、世間はさらに彼の作品に衝撃を受けることになります。

 

 

 

セカンドアルバム「Life After Death」のリリース

 

Biggieの死から16日後の3月25日、生前完成させていた最後のアルバムをリリースします。その名も「Life After Death」

 

Life After Death / The Notorious B.I.G.

出典:bigtreeinthehouse.com

 

 

筆者の感覚だと、アーティストが生前完成させていた作品とはいえ、亡くなってしまった場合、発売延期とか自粛ムードとかになるものでは。と思いますが、この作品は予定通りリリースされました。しかもタイトルは「Life After Death(=死後の世界)」

 

 

日本人ラッパーのK DUB SHINEは「デビューアルバムでReady To Die(=死への準備)出して、実際に亡くなって、セカンドでLife After Death(=死後の世界)を延期なく出すなんて、狂ってる。バケモンだ。」とBiggieを評価してました。でもホントBiggieの歴史を語る上で一番の衝撃は、その生涯とリリースした作品の関連性です。これは偶然なのか必然なのか・・・皮肉にもLife After Deathはこの東西抗争の影響もあり飛ぶように売れ、現在アメリカのレコード協会である「RIAA(リア・アメリカ)」はこのアルバムをダイヤモンド(1000万枚以上のセールスを上げたレコード)認定しております。実はヒップホップのレコードでダイヤモンド認定されているのはLife After Deathを含め計5枚しかないそうです。しかもこのアルバムはヒップホップ史上2番目に高いセールスを誇っているそうです。とんでもない作品ですね。

 

 

 

ということで、The Notorious B.I.G.ことBiggie Smallsの生涯を追った記事を書かせていただきました。今ヒップホップが好きで聴いている人たちのほとんどは2pacやBiggieの存在を知らない人は居ないはず(と筆者は思ってます。)ですが、じゃあ2人の何が凄かったのか、なんでこんなに有名なのか、なんか2人がバチバチしてて結果的に死んだから有名になったのか?とか、色々浅いところでふわふわなんとなく理解している人も多かったのではないでしょうか。もしそんな方がこの記事を読んでBiggieや2pac、東西抗争について理解を深めていってもらえたら、ありがたいですし、書いた甲斐がありました。おそらく2人がもしまだ生きていたとしても、絶対に伝説のラッパーとしてヒップホップ界をもっともっと牽引していたことでしょう。

 

 

Biggieに関しては、彼の死後「キング・オブ・ニューヨークは不在のままだ」と言われ続けています。過去にも現在にも色々な有名ラッパーを輩出しているニューヨークですが、様々な面において彼の全てを上回るアーティストは今後もなかなか現れないでしょう。あとBiggieの音楽を知るには生前作った2枚のアルバムをチェックすれば良いので、他のアーティストに比べれば、どちらかというと聴きやすい方ではないでしょうか。

 

 

「Ready To Die」「Life After Death」是非、2枚チェックしてみてください。

 

 

 

 

それでは今回はこのへんで・・・

 

 

 

 

最後までご覧いただきありがとうございます。

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