The Notorious B.I.G.とは?HIPHOP史上最も有名な事件の犠牲となったMC【前編】

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nekuradjです。

 

 

全世界におけるヒップホップの歴史上、最も有名で悲惨な結末を迎えてしまった「東西抗争」の犠牲となってしまった2人のMC(ラッパー)についてお話します。前回は西海岸のアーティストとして事件の犠牲となってしまったDeath Row Records(以下:デス・ロウ)2pacの生涯を追った記事をきました。

 

 

今回はそんなデス・ロウとビーフ(=ヒップホップ用語で「喧嘩」や「揉め事」)の関係となった、東海岸に拠点を置くBad Boy Records(以下:バッド・ボーイ)のMC(ラッパー)であるThe Notorious B.I.G.ことBiggie Smalls(以下:Biggie)について、同じく生涯を追った記事を書いていきたいと思います。

 

 

2pacの生涯を追った記事はこちら(前編)から是非ご覧になって下さい。

 

 

2pacに関する記事でも書きましたが、元々2pacとBiggieは非常にピースな関係を築いておりました。しかし、誰が仕組んだのか未だ判明されていないクワッド・レコーディングスタジオで起きた襲撃事件をきっかけに、東西のMC達はもちろん、地元のギャング団までも巻き込んでしまったり、それをメディアが取り上げて煽り、Biggieらの意図していない形でビーフは盛り上がってしまい、結果的に2人の伝説的なラッパーを失うという最悪な結末を迎えてしまいます。

 

 

筆者はこの事件について疑問に思う点が多く、2pacが襲撃されたことで2pac自身にBiggieへの恨みが生まれたことは事実ですが、この抗争をきっかけに裏でビジネス的な視点で動いていた黒幕がいたのではないかと考えてしまいます。あくまで筆者の考えですが・・・

 

 

ということで、東西抗争の2人目の犠牲となったBiggieの生涯を追っていきたいと思います。

 

 

 

Biggieの誕生

 

The Notorious B.I.G.

出典:conversationsabouther.net

 

本名:Christopher George Latore Wallace(クリストファー・ジョージ・レイトア・ウォレス)

生年月日:1972年5月21日生まれ

出身:ニューヨーク市 ブルックリン

 

 

ジャマイカ系移民の両親の下で生まれ、彼が2歳のときに父親は蒸発(=行方が分からなくなること)。その後は母ヴォレッタ・ウォレスが女手一つで彼を育てました。出身であるブルックリンは当時、犯罪やクラックが蔓延する暗黒の時代といわれておりました。しかし保育園の教師をしていた母ヴォレッタは非常に教育熱心で、Biggieを愛情深く育てました。

 

 

女手一つで家計を支えなければいけなかったヴォレッタは仕事漬けの毎日でした。そんな中、学校や地元の友達がギャングとして若い頃からお金を稼いでいたり、そのお金で良い服を着ていたりと周囲の影響があって次第に自分自身も母親の目を盗み地元でドラッグディーラーとして活動を始め、犯罪の世界へと手を染めていくことになります。

 

 

 

ラップへの興味

 

Biggieが本格的にラップへ興味を持ち始めたのは、地元ブルックリンのGeorge Westinghouse Career and Technical Education高校へ転入してからでした。この高校は今やヒップホップ界で知らぬ人は居ないであろうJAY-ZBusta Rhymesらを輩出した高校としても非常に有名です。

 

 

幼い頃からKurtis Blow(カーティス・ブロウ)などは既に流行っていて、日常的にヒップホップの音楽を聴く機会は多かったものの、ラップへ興味を持ったきっかけは学校やストリートで流行っていたラップバトルでした。この頃のBiggieは時間があれば常にラップを聴き込み、口ずさみ、自分自身でもフリースタイルラップをして遊ぶそうになります。しかし堅実な母ヴォレッタはラップを嫌っており「ラップなんて騒音よ。そんな物騒な音楽はやめなさい。」とBiggieにラップを辞めるよう説得していたそうです。既にどっぷりラップにハマっていたBiggieは母ヴォレッタに「その騒音で近いうち大金持ちになれるよ」と自信満々に返したといいます。

 

 

その後Biggieは17歳頃でドラッグ・ディーラーとしてのカリスマ性や、フリースタイルラップのキングとして地元ではかなり有名な存在になっていきます。Biggieが地元ベドフォード・スタイブサントという地区でフリースタイルをしている映像がDVD「Freestyle」に収録されております。

 

 

Biggieのフリースタイルラップ

 

 

 

本格的なラップキャリアのスタート

 

その後Biggieはクラックの売買が見つかり逮捕。9ヶ月の間刑務所生活を送ることになります。母ヴォレッタはその時初めてBiggieのディーラーとしての顔を知ります。

 

 

出所後に地元のメンバーと再開したBiggieは徐にマイクを取り、普段通りフリースタイルラップをして遊び始めます。そこに居た近所に住むDJグランが「お前才能あるしラップ録音してみようよ。」と切り出します。それに乗ったBiggieは自身のMCネームを「Biggie Smalls」と名付け、DJグランと共にデモテープを制作します。

 

 

実際のDemo Tape音源 / Biggie Smalls

 

 

当時デモテープを制作した心境としてBiggieは「自分のラップを録音して聴いて、それをただ楽しみたいだけだった。」と後のインタビューで話しています。このデモ音源が良い意味で彼らの予想を裏切る話が飛び込んできます。

 

 

Biggieと同じブルックリン出身のMC(ラッパー)のBig Daddy Kane(ビッグ・ダディ・ケイン)のDJとして知られるMister Cee(ミスター・シー)がこのデモテープを聴き絶賛。さらに言わずと知れたヒップホップ雑誌「The Source」にもこのデモテープが紹介され、BiggieのラップはThe Sourceの「UNSIGNED HYPE」というコラムでライム(韻を踏む)スキルを高く評価され、瞬く間に話題のラッパーとしてアメリカ中へ知れ渡ることになります。

 

 

当時(92年3月)のコラム記事

出典:thesource.com

 

 

 

Sean Combsとの出会い

 

Sean Combs(ショーン・コムズ)

出典:mtlblog.com

 

 

The Source誌のコラム発表後、Biggieのデモテープは当時Uptown Recordsというレーベルの幹部であったプロデューサーSean Combs(ショーン・コムズ 以下:ショーン)の元へ届けられます。ショーンもまたBiggieのラップに衝撃を受け、すぐにBiggieとの面談を設けます。「ストリートでハスリングラップを続けるか、スタジオでその才能を世界へ発信しスターの道へ進むか。」とBiggieを説得。ラップでスターになることを夢見たBiggieはUptown Recordsと契約を結ぶことになります。

 

 

Uptown Records契約後、同レーベルのHeavy D & The Boyzの4thアルバム「Blue Funk」に収録されている「A Buncha Niggas」にてGang StarrやBusta Rhymesら大物アーティストと共に参加し、これがBiggieの初オフィシャル音源となります。

 

 

Heavy D & The Boyz / A Buncha Niggas

 

 

 

Bad Boy Recordsの設立

 

BiggieがUptown Recordsと契約した矢先のことでした。レーベル創設者であるアンドレ・ハレル(Andre Harrell)はショーンをクビにしてしまうのです。後にアンドレは「ショーンを次の世代の第一人者として成功させるためには解雇という決断をするしかなかった」と語っています。

 

 

契約したばかりのBiggieはショーンのクビを受け入れられずショックを受けますが、ショーンは解雇後、当時のArista RecordsというレーベルのトップであるClive Jay Davis(クライブ・ジェイ・デイヴィス)に相談。Arista Recordsとその親会社であるBMGの傘下に、新たなレーベル「Bad Boy Records」を設立し、ここに契約金6万ドルでBiggieを改めて迎え入れることにします。

 

 

この誘いに再び乗ったBiggieは音楽の道を歩むことを改めて決意します。この時、ショーンに改名を勧められ「The Notorious B.I.G.」というMCネームが誕生します。Notoriousは「悪名高い」B.I.G.はBusiness Instead Of Gamesからきており直訳は「ゲームの代わりのビジネス」となりますが、単に「ビッグ」と読まれることも多いです。地元でのクラックの売買や、ストリートで生きる事を選んでも明るい未来は無いとし「遊びでやってたラップはもう遊びじゃない」というラップでスターになる決意が現れている名前です。

 

 

 

Bad Boy Records(バッド・ボーイ・レコーズ)

出典:dailyrapfacts.com

 

 

 

デビューアルバム「Ready to Die」

 

バッド・ボーイとの契約後、Biggieは早速1つめのシングル「Party and Bullshit」を完成させます。

 

 

Party And Bullshit / The Notorious B.I.G.

 

 

怪しげなオルガンの音と、重厚なベースラインが特徴のトラックの上にデビューしたばかりでかなり勢いよくキックするBiggieのラップはかなりカッコイイです。ショーンはBiggieを売り込むためにこの曲を西海岸で活躍していたDr. Dre(ドクター・ドレー)らが出演していた映画「Who’s The Man?」のサウンドトラックとして起用させ、Biggieをここでソロデビューさせています。そしてその勢いのまま、デビューアルバムの制作に取り掛かります。

 

 

Party And Bullshitのような攻撃的なラップが当時のBiggieの売りではありましたが、ショーンはデビューアルバムの制作中、意外なトラックを持ってきてBiggieにラップを乗せるよう指示します。そのサンプリング元となったのがMtume(エムトゥーメイ)のJuicy Fruit」というソウルミュージックでした。

 

 

Juicy Fruit / Mtume

 

 

これを聴いたBiggieは「こんな曲でラップしたら笑われちまうだろ。冗談を言うなよ。」とショーンの提案を最初は聞きれようとしませんでした。しかしショーンは「この曲にお前のラップを合わせたら絶対に儲かる。ラジオ向けの曲も必要なんだ。そうしないと売れない。」とBiggieをなんとか説得します。Biggieはしばらく考えた後この曲にラップを乗せてみることにします。

 

 

Juicy / The Notorious B.I.G.

 

 

ショーンの狙いは見事に大当たりすることになります。

 

 

Biggieは自身のストリートでの経験や抱いてきた感情をラップに落とし込み、最初は乗り気ではなかったトラックを見事に乗りこなし究極のラップを完成させてしまいます。これが後に爆発的な人気を誇りBiggieの名曲中の名曲とも言える「Juicy」という曲です。

 

 

1994年9月にこの曲を含めた全16曲を収録したデビューアルバム「Ready To Die」がリリースされます。

 

 

Ready To Die / The Notorious B.I.G.

出典:cdandlp.jp

 

 

同レーベルの第一弾アーティストとして既にデビューしていたCraig Mack(クレイグ・マック)の勢いもあり、続けて第二弾アーティストとして紹介されたBiggieのデビューはメディアの注目を大いに浴びることになりました。ショーンの選んだ幅広いトラックを200%乗りこなし、かつハードコアなストリートを描写したリリックが世界中のヒップホップリスナーに衝撃を与え、アルバムは大ヒットします。Biggieはこのアルバムのリリースをきっかけに一躍ラップのスター街道を一気に駆け上がっていくことになります。

 

 

 

2pacとの出会い

 

デビューアルバム「Ready To Die」の制作中、ロサンジェルスを訪れていたBiggie一行は、西海岸のラッパー、俳優として活躍していた2pacと共通の知り合いであるドラッグディーラーを介して接触することになります。既にBiggieの噂を聞きつけていた2pacはBiggieを歓迎し、自宅へ招き入れます。

 

 

2pac

出典:hiphople.com

 

Biggieは大いに歓迎され2pacとふたりで酒を交わし、冗談を言い合ったり、Weedを吸ったり、弾の入っていない銃を持って走り回ってはしゃいだりと、その時からふたりの友情は始まったと周囲は語っています。Biggieはその時2pacからお土産としてヘネシーを渡されていたそうです。その後も互いの自宅へ招き合い親交はより深まっていきました。

 

 

1993年にはマディソン・スクエア・ガーデンで開催された「Budweiser Superfest」に2人が参加し、フリースタイルラップを披露し会場を沸かせています。

 

 

Freestyle / 2pac & The Notorious B.I.G.

 

 

 

 

・・・と、今回はここまでとさせていただきます。次回は東西抗争へ発展するきっかけとなってしまったある事件の話を遡って話していきたいと思います。

 

 

 

 

最後までご覧いただきありがとうございました。

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