以前ヒップホップの歴史における超重要人物クール・ハークについて簡単にご紹介しましたが、実はヒップホップという文化がアメリカで産声を上げワールドワイドに成長する過程で欠かすことのできない重要人物がクール・ハークを含め3人いると言われてます。その人たちを「三大偉人」という人もいます。
その3人の中でヒップホップの一番の貢献人と言われるのがAfrika Bambaataa(アフリカ・バンバータ)という人物です。
ちなみにヒップホップの三大偉人とは
Afrika Bambaataa(アフリカ・バンバータ)
Grandmaster Flash(グランドマスター・フラッシュ)
のことを指すと言われております。
そんな三大偉人の1人アフリカ・バンバータについて簡単にご紹介していきます。
アフリカ・バンバータ
アフリカ・バンバータ(Afrika Bambaataa)
出典:bmr.jp
本名:Kevin Donovan(ケヴィン・ドノバン)
1954年4月17日生まれ。アメリカニューヨーク市にあるサウスブロンクス出身のDJ、ミュージシャン。
ニューヨークのマンハッタンで生まれ、その後看護師だった母親の手によりブロンクスにある低所得者用公営住宅(ブロンクス・リヴァー団地)で育ったケヴィン。彼の母親は非常に幅広いジャンルのレコードコレクターだったそうで、ケヴィンは幼少期から母親の影響で音楽に親しむ環境で育ちます。その影響から彼自身も後にDJとして活動しますが、他のDJとは一線を画す選曲や独自のグルーヴを生み出すことが得意だったため、マスターズ・オブ・レコードの異名を持っていたことでも有名な人物です。
しかしケヴィンは音楽に触れると同時に、戦争モノの映画を非常に好んで観る少年であり、中でも南アフリカのズールー王国とイギリスとの間で起きた「ズールー戦争」を描いた映画を観たことがきっかけで「戦うことへの勇気」を覚え、次第にギャングの世界へと引き込まれていくことになります。
ギャング全盛期のブロンクス
ヒップホップが誕生したと言われる70年代のブロンクスはギャング闘争の年とも言われ、外では銃声が鳴り止まず、放火が多発した時代であり、ギャング団それぞれの縄張り意識が非常に強く抗争続きの街だったと言われてます。
ケヴィンの戦争好きに目をつけた地元のギャング団は、彼を自分たちのグループに加入させます。それが後にニューヨーク最大最強のギャング団と言われる「ブラック・スペーズ」というグループでした。ケヴィンは若くしてブラック・スペーズの司令塔をに担うとになります。
ケヴィンはギャング抗争全盛期の時代に少年時代に観た戦争映画の知識をストリートに活かし、他のギャングとぶつかる事を恐れず、見事な立ち回りで成果を挙げ、ハーレム、ブルックリン、クイーンズと徐々に勢力を伸ばしブラック・スペーズをニューヨーク最大のギャング団へと成長させます。
その見事な立ち回りでニューヨーク最大のギャング団へと進化させたケヴィンでしたが、日々の抗争の中でだんだんと自分の使命について考えるようになっていったそうです。実際のところケヴィン自身は周囲に比べるとそこまで好戦的ではなくギャングの司令塔でありながら抗争に対し「この争いは続ける必要があるのか」と日々悩むようになっていきます。
非暴力組織(ズールーネイション)の創設
抗争に対して葛藤する中、ブラック・スペーズの分派である「カサノバ・クルー」というギャング団が当時完成したばかりのクラブ「ザ・ブラック・ドア」のオーガナイズを務める事になります。ヒップホップ三大偉人の1人であるグランドマスター・フラッシュがレギュラーでDJをしていたクラブとしても有名です。アフリカ・バンバータ自身もクール・ハークの影響でDJを始めており、ブロンクス各地でパーティを行っていた時代です。
ギャング団の抗争が絶えない中、自分を含め周囲のギャング仲間たちが音楽で楽しく盛り上がっている光景を見たケヴィンは「このパーティを使ってどうにか争いを別の視点に置き換えることが出来ないか」と考えるようになります。
そしてケヴィンはこのブラック・スペーズの活動を終息させ、新たに「ユニバーサル・ズールー・ネイション」という非暴力組織を立ち上げます。(ズールー・ネイションとよく呼ばれます。)これがヒップホップが躍進する大きなポイントとなります。ズールー・ネイションについての詳細は、また別な機会に紹介したいと思います。
ズール・ネイションはギャングをしていた仲間を中心に
Unity(団体)
Love(愛)
Having fun(音楽を楽しむ)
の精神でMCやDJ、ダンサーやグラフィティライターが集まるグループです。
フライヤーの中には必ず「Come In Peace(平和なパーティとして遊びに来るように)」と書き宣伝をしていたそうです。この頃から自身をAfrika Bambaataa(アフリカ・バンバータ)と呼ぶようになったと言われております。
ヒップホップの命名
母親の影響もありDJとしては充分すぎるほど音楽の知識があったケヴィンは気難しい客も楽しませる事が得意なDJだったそうです。元ブラック・スペーズのメンバーらが既にDJとして活躍し始めてたということもあって、多くのギャングメンバーを自身が運営するユニバーサル・ズールー・ネイションへ引き抜くことに成功します。
そして1973年11月12日、ケヴィンはパーティ中に歴史的な宣言をします。
「私たちアフロ・アメリカン(アフリカ系アメリカ人)はこれからアメリカで新しい生活スタイルと文化(カルチャー)を持つ。私はそのカルチャーを”ヒップホップ”(Hip Hop)と呼ぶことにした。我々黒人は意識改革をしなければならない。暴力のエネルギーをカルチャーに向けよう」
引用元:overdosejapan
こうしてケヴィンは当時ブロックパーティで行われていた
を総称して「HIPHOP」と命名します。
これがヒップホップの話によく出てくる「四大要素」ってやつですね。それ以降、毎年11月は「HIPHOP HISTORY MONTH」と呼ばれ、ヒップホップに関するお祝い事が多い月となります。
現代のヒップホップを楽しむ我々は単純な文化や音楽としてこれを楽しんでますが、当時はギャング抗争が絶えない最中であったため、アフリカ・バンバータはこの四大要素に加え、ギャング団の抗争を無血で終わらせるために必要不可欠なものとして、ヒップホップ文化に対する理解を示す「知識」という要素を加えこれらを五大要素として考えています。
こうしてアフリカ・バンバータは当時の暴力的な抗争をなるべく抑えMC(ラップ)、DJ、ブレイクダンス、グラフィティを使ってその日の優劣を分けるということを推し進めていきました。ストリートギャングの道を歩みながらも抗争を無血で終結させるためにヒップホップという新たな文化を提唱しギャングたちの人生を救っていったのがアフリカ・バンバータだったんですね。
当時のギャング抗争を沈め、さらにヒップホップの名付け親であるというアフリカ・バンバータ。なんという貢献人!!彼がいなければヒップホップが世に広まることはなかったということですね。まさに偉人。
ということでアフリカ・バンバータという人物のヒップホップ初心者向けの紹介でした。