nekuradjです。
アーティストが音楽を作って売る時って、自主制作を除いて必ずどこかしらの「レーベル」に所属してレコードやCDを出しますよね。
みんなそれぞれ好きなアーティストっていると思いますが、調べてみるとけっこうみんなレーベルがバラバラだったりするんですよね。
レーベルとか気にしたことないんだけど
確かに、普段音楽の話を友達にする時って「このアーティストはここのレーベル出身だ」とか「このレーベルのアーティストが好き」とか、そんな会話ってなかなかしないですよね。
けどね、ヒップホップに関してはね、レーベルの名前が会話の中でけっこう出てくるんですよね。
なぜでしょうね。笑
あまりその辺詳しく調べたことがないのでわかりませんが、、、
でもホント、ヒップホップ好きな人たちって「あのレーベルが最近良い」とか「あのアーティストがあのレーベルと契約した」とか、よく話すんですよね。たぶんレーベル信者みたいな人も少なくないはず、、、。このレーベルから出たアーティストしかほとんど聴かないとかね。
まあそんなこんなで、今回はヒップホップのレーベルについて、少し話してみようと思います。
ヒップホップファンであれば、知らない人はいない「Def Jam Recordings」について。
ヒップホップ初心者向けに、このレーベルがなぜ有名なのかを簡単に紹介したいと思います。
Def Jam Recordings とは?
「Def Jam Recordings(デフ・ジャム・レコーディングス)」
設立:1984年 アメリカ ニューヨーク
母体:ユニバーサル・ミュージック・グループ(2020年現在)
創設者:ラッセル・シモンズ、リック・ルービン
数あるヒップホップ・レーベルの中でも、ひときわ有名で「アメリカの超名門レーベル」とも言われる「Def Jam Recordings(以下:Def Jam)」
ヒップホップを少しでも聴いたことがある方であれば一度は聴いたことのあるレーベル名ではないでしょうか。
「イギリス」「フランス」「南アフリカ」にそれぞれ支社があります。
日本(東京)にも支社があり、近年休止状態ではありましたが、2016年に再始動しております。AK-69が再始動後の第一弾アーティストとして話題となりました。
Def Jamが成し遂げた功績
まず、Def Jamが成し遂げた大きな功績としてあげられるのは、一言で言えば「ヒップホップを人種の壁を越え世界中に広めた」ことでしょう。Def Jamの存在があったからこそ、ヒップホップをメインストリームの世界へ押し出すことができたのです。
黒人音楽というのは、常に貧しい地域に住む黒人たちから生まれるものでした。ヒップホップのその内の1つです。
1980年代まだ黒人文化として、その娯楽としてニューヨークを中心に盛り上がっていたヒップホップでしたが、当時はまだ黒人音楽の1つのジャンルという見方でした。やっていた当人達もヒップホップを世界中に広めてやろう。なんて思って活動はしてませんでした。
ヒップホップに目を付けたシルヴィア・ジャクソンがシュガーヒル・ギャングを結成させ、ヒップホップを初めて音源化することに成功し、一度は爆発的に盛り上がりを見せるものの、これも一時的なブームに過ぎないと当時のメディアは思っていたことでしょう。
しかし、それがそうならなかったのはこのDef Jamというレーベルの存在が大きく関わっていたからです。
Def Jamはなぜヒップホップを広められたのか
公民権運動が盛んだった1960年代以降、少しずつ貧困から抜け出す「中産階級」という裕福層と貧困層の中間層の黒人たちが増え始めます。その中産階級の中で育った黒人の子供たちが後にこのDef Jamを生み出し、ヒップホップを躍進させることになります。
この中産階級の黒人達は公民権運動を通して、自分たち(黒人)がどうやって自分たちの居場所を確保するべきか考え、計画することに日々時間を費やしておりました。言ってしまえばその中産階級にいる黒人達は他の貧困層の黒人に比べ「希少で有能な存在」だったということです。
そんな有能な黒人たちは自分たちの思い描くアメリカ社会や文化をヒップホップに落とし込みアピールしたことで、それが以前まで流行っていたようなヒップホップとは違い、彼らの念頭にあった「人種の壁を越える」ことを推し進めたことで、白人をも巻き込み、より多くの人々の興味を煽り、徐々に世界中へヒップホップを広めていくことになります。
Def Jamの創設者とアーティストの偉業
1984年にDef Jamは誕生します。
創設者は黒人のラッセル・シモンズとユダヤ系の白人リック・ルービン。
ラッセル・シモンズ
出典:barks.jp
リック・ルービン
この2人のプロデューサーの活躍によって、ヒップホップは新たなステージへとのし上がる事になります。
ラッセル・シモンズはすでに地元クイーンズでカーティス・ブロウというラッパーをすでにプロデュースしていることでも有名でしたが、ここで大学時代のリック・ルービンと出会いDef Jamを設立。2人が手を組んだ事によって、お互いの人脈をフル活用し、次々に中産階級の才能あるラッパーたちを誘い込む事に成功します。
リック・ルービンが目を付け、当時世界的にも強烈な影響を与えた代表的なグループといえば、やはり「Public Enemy(パブリック・エネミー 以下:PE)」でしょう。
Public Enemy
出典:medium.com
PEの中心メンバーであるChuck D(チャックD)のカリスマ的な才能はリック・ルービンを唸らせます。人種差別についてのメッセージ性の強さが白人たちからの批判も多いPEでしたが、黒人たちが差別を受け自分たちに関わるニュースが伏せられる中、ラップが俺たち(黒人)にとってのTV局だという考えから、チャックDは「ラップはブラックアメリカのCNNだ」という名言を生み出し熱狂的なファンを多く獲得していきます。
他にもラッセル・シモンズの弟であるジョセフ・シモンズが所属しているグループ「Run-D.M.C.」もDef Jamアーティストとしては有名で「Walk This Way」のヒットもさることながら、3枚目のアルバム「Raising Hell(レイジング・ヘル)」を1986年にリリースし、これが爆発的にヒット。このアルバムのヒットによって白人オーディエンスへクロスオーバーすることを実現させます。
方やDef Jam初の白人ラップグループ「Beastie Boys(ビースティ・ボーイズ)」はデビューアルバム「Licensed To Ill(ライセンス・トゥ・イル)」をRaising Hellと同年にリリース。これも黒人オーディエンスへのクロスオーバーに成功します。
まさに「人種の壁を越える」ことを設立から数年で完璧に成し遂げたのです。
こうしたラッセル・シモンズやリック・ルービンを中心としたDef Jamの試みにより、ヒップホップの購買層は大幅に増え、一躍影響力のある人気ジャンルへとのし上がります。
そしてメジャーレーベルも、ヒップホップが一時的なブームではないことを悟り、急いでヒップホップアーティストを探し始めるようになったといいます。
こうしてヒップホップは世界規模に拡大し徐々にメインストリームの世界へ顔を出すようになっていくのです。
ということでDef Jamがヒップホップの歴史における最重要レーベルであることを簡単にですが、説明させていただきました。
ヒップホップをこれから知る方は、レーベルというものにあまり興味がなかったとしても「Def Jam」の存在は是非、頭の片隅に置いてもらえたらと思います。
それでは今回はこのへんで。
最後までご覧いただきありがとうございました。