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2pac(Tupac)とは?HIPHOP史上最も有名な事件の犠牲となったMC【後編】

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Artist

 

 

 

nekuradjです。

 

 

2pacというMC(ラッパー)について、生涯を追った記事を要点をまとめてご紹介しております。今回は後編ですので、前編を見ていない方はこちらからご覧ください。

 

 

後編では襲撃事件後、2pacのDeath Row Records(以下:デス・ロウ)との契約、釈放、そしてBiggieら東海岸勢への痛烈なDIS、そしてこの東西抗争の終息まで話していきたいと思います。

 

 

 

Death Row Recordsとの契約

 

 

デス・ロウのCEOSuge Knight(シュグ・ナイト 以下:シュグ)は94年〜95年当時、年間収益が1億ドル以上もあり、レーベルオーナーとしては絶頂の時期を迎えておりました。

 

 

服役中の2pacと面会したシュグは「俺はデス・ロウとファミリーであり、俺はデス・ロウの父親だ。もちろん家族の面倒はきっちりみる。お前がウチの一員となれば、保釈金の面倒は俺がみよう」と持ちかけます。2pacは家を売り払ってしまった母親を想い「親に家を買ってやりたい」と言います。シュグはそれを承諾し、2pacに契約書にサインをさせます。

 

 

ただ、2pacと昔から付き合いのあった仲間たちは、シュグの悪い噂も知っており「俺たちはトゥパックがあいつ(シュグ)に魂を売ったとしか思えなかった。」と話していたそうです。もちろん2pac自身もシュグの噂は知っていましたが「俺は今、何が何でもやらなきゃいけないことがあるんだ。」と友人たちに答えていたそうです。そう言われた仲間たちは返す言葉がなかったといいます。

 

 

そしてシュグの協力のもと保釈された2pacは、デス・ロウへと迎え入れられ、わずか6日間のあいだに14曲もの楽曲を完成させます。デス・ロウ契約後のインタビューで2pacは「俺とシュグは相棒として完璧だ。ノリが俺と似ているんだ。」と答えています。

 

 

さらにデス・ロウは、2pacから昔の友人たちを寄せ付けようとしませんでした。シュグ・ナイトの親父ぶりは常軌を逸していたといいます。それが浮き彫りとなったのは、2pacが襲撃された1年後、2pacが元々所属していたデジタル・アンダーグラウンドの一派であり2pacと親友であったストレッチが何者かに射殺され、これがデス・ロウの一派だというのが有力です。

 

 

 

Bad Boy Recordsへの宣戦布告

 

2pacは服役中、面会でシュグに「俺の襲撃に関わったBad Boy Records(以下:バッド・ボーイ)への復讐を手伝って欲しい。」と伝えます。シュグはそれを受け、すぐ後にマディソン・スクエア・ガーデンで開催されたThe Source主催のヒップホップアワードへ出席します。

 

 

そのヒップホップアワードでデス・ロウの楽曲がベストサウンドトラック賞を受賞し、シュグはその受賞の際、壇上でいきなりバッド・ボーイへ暴言を吐きます。

 

 

「どんなアーティストもアーティストのままでいるべきだ。ビデオの中でダンスなんかして出しゃばるプロデューサーに思い悩む必要はない。アーティストやスターに憧れるヤツはとにかくデス・ロウに来い!」

 

 

当時の映像があります。

 

 

シュグがバッド・ボーイをDISした受賞スピーチの映像

 

 

「ビデオの中でダンスをして出しゃばるプロデューサー」という発言。参加者のほとんどが間違いなくバッド・ボーイのショーン・コムズ(以下:ショーン)へ宛てたものだと認識します。確かにショーンは、毎回PVに出てきてはアドリブで踊るということをしておりました。

 

 

しかし会場にいた多くの観客は「なぜそんな暴言を吐いたのか?」とシュグの発言に疑問を抱き、非難されます。デス・ロウに所属するラッパーであるNate Dogg(ネイト・ドッグ)でさえ、なぜあんな暴言を吐いたのか。と複雑な気持ちになっていたそうです。

 

 

2pacの襲撃事件について、バッド・ボーイが関与していた証拠はありませんが、こうしたシュグの発言が完全な宣戦布告となり、東海岸vs西海岸の抗争が幕開けとなってしまいます。

 

 

 

2pacによる東海岸へのDIS

 

釈放された2pacは、96年の2月にアルバムAll Eyez On Meをデス・ロウからリリースします。

 

All Eyez On Me(オール・アイズ・オン・ミー)

出典:discogs.com

 

 

シュグ・ナイトによる宣戦布告の効果でメディアが賑わってたこともあり、このアルバムは累計900万枚以上のセールスを叩き出します。さらに同年6月にはバッド・ボーイを激しくDISした楽曲Hit ‘Em Upをリリースします。しょっぱなでいきなり「Bad Boy Killer!(バッド・ボーイを殺す奴)」なんて恐ろしいシャウトから始まるのか印象的です。

 

 

Hit ‘Em Up / 2pac

 

 

曲中ではBiggieの嫁であるFaith Evans(フェイス・エヴァンス) とヤッたことがある。なんてビーフファンにはたまらない暴露までしてラップでBiggieを痛烈にディスしています。

 

 

Faith Evans(フェイス・エヴァンス)

出典:last.fm

 

 

こんな曲をお披露目したことでメディアの注目はさらに高まってしまいます。いつの時代もこういったメディアが芸能人のスキャンダルや不仲を煽って盛り上げていくもので、よくよく考えればこれはシュグら経営陣が音楽をビジネス観点で捉えた、思うツボのようなシナリオだったのかもしれない。と個人的には思ってしまいます。

 

 

東西抗争に終止符が打たれたと思った時期があった?

 

Hit ‘Em Upの内容を受け、バッド・ボーイ一行は当時のヒップホップ誌「VIBE」で「活動する大陸は分かれているが、いがみ合いをするべきではない」とコメントしており、メディアの期待を裏切りこの抗争を静観する意向を示します。なんとか終息させようと試みていたのだと思います。

 

 

そして2pac自信も、デス・ロウからリリースした第一弾アルバム「All Eyez On Me」をリリースした直後から、少しずつこの抗争を含めラッパーとしての活動に疲弊していきました。大きな原因の1つはデス・ロウへの借金です。All Eyez On Meのヒットにより約6000万ドルものセールスをあげていたものの、2pacがデス・ロウから背負っていた借金はまだまだ残っており「いい加減見切りをつけたい」と周囲に漏らすようになったといいます。親しい友人たちには「もうあいつ(シュグ)のやり方にはうんざりだ。嫌気がさすよ」と漏らし、デス・ロウへ長居するつもりがないことを明かしていたそうです。

 

 

実はデス・ロウと契約した際も最初からずっとこのレーベルにいようとしていたわけではなく、デス・ロウでの活動は単なる途中経過に過ぎず、ゆくゆくは自分の会社を起こし、音楽以外の俳優業や貧しい人々を援助すること、さらには政治的な活動も視野に入れていたといいます。

 

 

このように、バッド・ボーイの好戦的でないアティチュードや、2pac自身のデス・ロウとの向き合い方から、この東西抗争は自然に緩和されていくものだと周囲は信じていました。

 

 

 

マキャベリの誕生

 

2pacは服役中に読んだ本でイタリアの政治思想家ニッコロ・マキャベリという人物に大いに感銘を受けており、その後デス・ロウでの自身のMC名をそのまま「MAKAVELI(マキャベリ)」と改名し、新しいアルバムの録音を行います。

 

 

このマキャベリ名義の活動は2pacにとって、デス・ロウとの契約解消を視野に入れた第一歩としてやっていたことだと噂されております。その活動の裏には、婚約を一時解消していたギダーダ・ジョーンズ(クインシー・ジョーンズの娘)に「俺はもうサグ・ライフには戻りたくないし、もう戻らない。」と漏らしており、その頃から2pacの生活は少しづつおとなしくなっていったといいます。

 

 

しかし、まだデス・ロウで活動する必要があった2pacは、結局シュグ・ナイトには頭があがらないためデス・ロウの活動中は相変わらず血の気盛んな問題児を演じていたそうです。その当時のVIBE誌でも2pacのインタビューには「俺が若頭なら、シュグは頭領だ。俺たちはこれからもずっとビジネスを続けていくだろう。」なんて答えてます。

 

 

 

2pacに襲いかかる悲劇

 

マキャベリ名義のアルバムが完成した数日後、2pacはMTV主催のミュージックアワーズの授賞式へ出席するため、シュグとニューヨークへ向かいました。

 

 

1996年9月7日、ミュージックアワーズの受賞後、ロサンジェルへと戻った2pacでしたが、当時同性していたギダーダは2pacの異変に気付きます。「なんだかいつもよりピリピリしている。」そう感じていました。しかしギダーダが2pacに何か問題でもあったのかと聞いても「そうじゃない」と答え、「この間シュグとマイク・タイソンの試合を見にいく約束をしたんだ。けど正直あまり乗り気じゃない。けど約束をしてしまったものは仕方ないから行ってくる。」と伝え、ロサンジェルスから戻った晩、シュグと共に試合を見にラスベガスへと向かいます。

 

 

試合はマイクタ・イソンの圧勝。わずか1分49秒という速さで決着がつき、一行は会場を後にしようとします。その時若い黒人男性が突然2pacにつっかかり、そこから取っ組み合いの喧嘩が起こります。なんとかシュグの取り巻きによって事態は鎮圧されましたが、2pacは「やっぱなんか変な感じがする」と気が張りつめていきます。

 

 

一度ホテルに戻り、ギダーダに「やっぱり今日は嫌な予感がする。さっきもいきなり知らねぇ野郎に絡まれたし、なにか臭う。お前はここで待ってろ」と言い残し、2pacは再びロビーでシュグ・ナイトと合流すると、シュグが所有しているクラブ「662」へと向かいます。

 

 

シュグが運転席、2pacが助手席に乗り、クラブへと向かう途中ひと気の少ない暗い街角で信号待ちをしていたときでした。カリフォルニアナンバーの白いキャデラックにゆっくりと横付けされ、空いていた窓から拳銃の銃口が2pacへと向けられます。それに気付いた2pacは反射的に後部座席へと飛び移ろうとしましたが、発砲は計13発にもおよび、2pacにはその内4発の銃弾が命中します。内2発が肺を貫通。

 

 

病院に運び込まれた際、2pacはまだかろうじて意識があり、駆けつけたギダーダに「俺は死ぬんだな・・・」と呟き、そのまま昏睡状態へと陥りました。医師からも「呼吸器系のダメージが酷く、生存できる確率は20%もない」と、ほぼ諦めに近いコメントが出されます。その6日後の9月13日、は呼吸器官のダメージによる内出血の悪化により心肺停止。2pacは25歳というあまりに短い人生に幕を下ろすのでした。

 

 

死後、バッド・ボーイの動きと作品のリリース

 

この事件は当時対立していた(と噂された)バッド・ボーイのメンバーであるBiggieの関与が真っ先に疑われましたが、Biggieはその日別なスタジオでアルバムの収録をしており、容疑を否認します。

 

 

さらにBiggieは、当時人気のあった「Rap City」と言う番組に出演した際、2pacの死に対する質問をされると「今までで一番ショックを受けた。2pacはどれほど強い男だったか俺は知っていた。だから銃弾を受けたと聞いて、またか。と思ったが、死んでしまってはもう帰ってこない。俺たちはこれからも歩き続けていく必要がある。」とコメントしてます。その時のインタビュー動画がアップされていたので以下に貼っておきます。

 

 

Rap CityでのBiggieのインタビュー映像

 

 

そして2pacの死後、同年11月に生前録音を済ませていたマキャベリ名義のアルバム「The Don Killuminati: The 7 Day Theory」がデス・ロウからリリースされます。

 

 

The Don Killuminati: The 7 Day Theory 

出典:thesource.com

 

 

このアルバムは2pacの襲撃事件もあってか、内容に賛否はあるものの、全米では500万枚ものセールスを上げております。

 

 

2pacの死後は、母親のアフェニ・シャクールが2pacの未発表音源の権利を取得し、2pacのミドルネームをとって「AMARU RECORD」を設立します。97年11月には未発表曲集アルバム「R U Still Down? (Remember Me)」のリリース(個人的には「Do For Love」が好き!)。そして98年11月には未発表曲を数曲含めたベスト盤「GREATEST HITS」をリリースし、アフェニの精力的な活動もあり、伝説として2pacの死後も2pacはリリースを続け、ヒップホップファンの中で生き続けるのでした。

 

 

AMARU RECORD

 

出典:tvtropes

 

R U Still Down? (Remember Me)

出典:last.fm

 

GREATEST HITS

出典:discogs.com

 

 

 

 

いかがだったでしょうか。かなり要約してしまった気がしてますが、2pacの生涯を振り返ってみました。2pacの標的とされたBiggieも2pacの死から半年後、同じように何者かに射殺されてしまいます。

 

 

この2人のラッパーはアメリカの東西では完全にキング的な立ち位置なわけで、もし生きていればヒップホップの歴史もまだまだ2人に大きく影響を受けていた事でしょう。時代が移り変わっていくにつれ、これからヒップホップにハマっていくリスナーたちは、どんどんこういった歴史を知らない人が増えていくと思うので、サラッと読んでもらってヒップホップ的に重要なトピックは押さえてもらいたいところですね。次回はBiggieにスポットを当てた記事を書いていきたいと思ってます。

 

 

 

 

それでは今回はこのへんで。

 

 

 

 

最後までご覧いただきありがとうございます。

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