nekuradjです。
今回はヒップホップの歴史を知る(語る)上で避けては通れない。避けて通ることは許されないであろう、ヒップホップ史上、最も大きな事件「東西抗争」の悲劇の主人公となってしまった、2pacというMC(ラッパー)について、ヒップホップ初心者や、この東西抗争を知らない方向けに、なるべく要点をまとめた記事を書いていきたいと思います。
この事件に関しては未解決な部分が多く、ほぼ迷宮入りと化してしまってます。世界中のヒップホップファンの間でも様々な臆測が飛び交っているので、あくまで一説にはなりますが、関係者のインタビューや彼らの音源から読み取れる、恐らくいちばん信憑性のあるであろう内容を筆者なりにまとめてお話させていただきます。
1つの記事にまとめるとけっこう長くなるので「前編」と「後編」に分けて書かせていただきます。「前編」では主に2pacの生い立ちやラッパーとしてどのようにキャリアを重ねていったのかなどをご紹介していきます。
はじめに
そもそも今回取り上げる2人の天才ラッパー2pacとThe Notorious B.I.G.の存在は皆さんご存知でしょうか。
(左)The Notorious B.I.G. (右):2pac
アメリカ西海岸を代表するMC(ラッパー) 2pac(トゥパック)
アメリカ東海岸を代表するMC(ラッパー) The Notorious B.I.G.(ノトーリアス・ビー・アイ・ジー)
2人は生前、親交がとても深くアメリカはもとより全世界のヒップホップシーンを牽引していた若き天才ラッパーでした。
そんな公私ともに良好な関係を築いていた2人に、いまだ未解決な「ある事件」が起きたことがきっかけで2人と、その2人が所属するレーベルに大きな亀裂が入り、瞬く間に両者の溝が深まっていくことになってしまいます。それをメディアが取り上げ、民衆が煽り、東西のアーティストだけでなく、ギャング団をも巻き込んで大きな抗争に発展していき、その結果、世間の意図していなかった形でこの抗争は終息を迎えることになります。
今回は若くしてヒップホップ界のレジェンドに君臨し、その東西抗争の犠牲者となってしまったラッパー「2pac」という人物を紹介していきます。
2pacの誕生
2pac(トゥパック)
出典:hiphople.com
本名:Tupac Amaru Shakur(トゥパック・アマル・シャクール)
生年月日:1971年6月16日生まれ
出身:ニューヨーク市 マンハッタン ハーレム地区
1970年代当時少数の白人層が大多数の黒人層を支配するという時代。黒人民主主義運動や黒人解放運動を急進的に展開していることで有名だった政治組織「ブラックパンサー党」(日本では黒豹党と呼ばれていた。)の党員のアフェニ・シャクールとビリー・ガーランドの2人の間に生まれたトゥパック。(実際のところ父親がビリーかどうかハッキリはしていないという説も?)
トゥパックは幼少期、ヒップホップ発祥の地と言われるニューヨーク、ブロンクスのプロジェクト(=低所得者用の公営団地)で過ごしますが、ブラックパンサー党であったの母アフェニに連れられ住まいを転々とします。母アフェニは重度の麻薬中毒にもなっており家庭は酷く貧困に苛まれますが、トゥパックは決して母親を責めることはせず、ブラックパンサー党で活動した母親の教えを自分なりに消化し、現状を打破しなければいけないという意識から貧しいストリートでの出来事を早くから日々ラップに落とし込むようになっていったといいます。
その後、母親と共にボルチモアという地区へ移り住んだときでした。当時高校に通っていたトゥパックはある日、銃弾による爆発事故に親友が巻き込まれ命を落とすという事件を目の当たりにします。まだ若すぎる親友の死を受けトゥパックは自分の身近に起きている現実を世間に訴えるためにラッパーになることを決めたそうです。居ても立っても居られなかったトゥパックはそのまま高校を中退。そしてカリフォルニアのベイエリアへと単身で移り住み、ラッパーとしてのキャリアをスタートさせます。
初期の音楽活動・俳優デビュー
デビュー前はMCニューヨークというMC名でベイエリアを中心に活動しており、ドラッグ・ディーラーをして日銭を稼ぎながらその生き様や過去のストリートでの体験などを日々リリックに起こしていき、少しずつ名前を広めていきました。
大きな転機となったのは、当時カリフォルニアで活動していたデジタル・アンダーグラウンド(以下:DU)というヒップホップグループがデビューアルバム「Sex Packets」のリリースツアーを行うため、メンバーオーディションを募集したことでした。そこに顔を出したトゥパックにDUのメンバーは目を付け、その場で彼のスキルを認め、DUのメンバーとして正式に加入することになります。
Digital Underground
この「Sex Packets」のリリースツアーでは日本も訪れており、当時のインタビュー映像が残っておりましたので以下に貼っておきます。
その後1991年1月、DUがリリースした「Same Song」という曲でトゥパックはレコードデビューを果たします。
当時から変わらない独特な声色が超カッコ良いです。(2:19から2pacのバースです。)
そして同年11月には、念願であった初のソロアルバム「2Pacalyps Now(2パカリプス・ナウ)」をリリースします。
2Pacalyps Now(2パカリプス・ナウ)
出典:discogs.com
このアルバムはDUのバックアップがあったものの、グループとソロアルバムとではコンセプトが完全に一線を画しており、DU唯一のギャング出身だった彼自身が体験したヘヴィなストリートライフを生々しく表現した内容となってます。
2Pacalyps Now(2パカリプス・ナウ)をリリースした翌年(1992年)には、今度は「Juice(ジュース)」という人種差別や黒人問題を取り上げた映画に出演。4人のメインキャストの内の1人ビショップ役で映画デビューも果たし、クールな役柄が衆目を釘付けにし、俳優としての成功もおさめました。
Juice(ジュース)
出典:movies.yahoo
俳優として成功をおさめた事で、デビューアルバムのセールスがさらに伸び、まさにスター街道まっしぐらな感じで、92年は2pacにとって当たりの年だったと言えるでしょう。
リリックの影響力と自身が起こした事件
デビュー後、一躍ヒップホップスターにのし上がった2pacですが、彼自身の言動や過激なリリック(歌詞)の内容はときにリスナーを熱狂させると同時にその影響力から犯罪に手を出すファンも少なくなかったそうです。
2Pacalyps Nowをリリースした数ヶ月後、テキサス州の警察官が19歳の黒人に職務質問したところ、逆にその黒人に射殺されると言う事件が起きます。彼は2pacのリリックの影響を受けたと発言したことから訴訟を起こされたり、その一連の流れから当時のクエール副大統領からも痛烈なアルバム批判をされました。
他にも93年に、白人と黒人の揉め事に仲裁に入った2pacが白人警官に拳銃を突きつけられたことから、自身の持っていた拳銃でその白人警官を撃ち負傷させてしまったり、その数週間後に紹介された19歳のファンの女性を何度も強姦したことから逮捕されてしまいます。
この度重なる不祥事のせいで自身の活動の幅を狭めてしまっていた事は事実ですが、それでもヒップホップ界隈では彼の活躍は毎日のように語られ、確実にファンを増やし続けていきました。
The Notorious B.I.G.の出会い
1992年3月に創刊されたHIPHOP誌「The Source」のUNSIGNED HYPEに、東海岸出身のThe Notorious B.I.G.(以下:Biggie)というラッパーが紹介され、その褒めちぎられたライム(韻を踏むスキル)の評価に世界中のヒップホップファンが注目することになります。
The Source誌の実際の記事
91年のソロデビュー。続けて俳優デビューと、着実にスターキャリアを重ねていった2pacももちろんこの噂を耳にすることになります。そして93年6月、その噂されていたラッパーThe Notorious B.I.G.が「Party And Bullshit」で待望のデビューを飾ります。
The Notorious B.I.G.
Biggieのラップスキルに感心した2pacはParty And Bullshitのリリース後、これを何度も聴いていたそうです。そして間も無くこの2人は共通の知り合いであるドラッグディーラーを介して接触することになります。Biggieはデビュー後まもない駆け出しのラッパーだったのに対し、2pacはラッパーとしても俳優としても成功しているスターという立場ではありましたが、2人はあっという間に意気投合し、2pacはBiggieに対してラップの内容や人生観など自身の成功体験などを交えてBiggieに沢山アドバイスしていたと言われ、親密な関係を築いていきます。
多くの影響を与えられたBiggieは「俺のマネージメントをしくれないか?」と頼んだという話も有名です。しかし2pacはこれを断り、「お前はショーンのところに居ろ。彼はお前を必ずスターにしてくれる。」とBiggieが所属するBad Boy Recordsの最高経営責任者であるSean Combs(ショーン・コムズ)の側にいることを勧めたといいます。その後も互いが互いの自宅に遊びに行ったり、パーティをして遊んだりと、公私ともに確実な親友関係を築いていったそうです。
東西抗争の発端となった事件
2pacは先述した度重なる不祥事をきっかけに多額の裁判(弁護士)費用を支払っており、それ以外にも日々豪遊していたことから徐々に自身の口座は枯渇していきました。そんな中2pacはBiggieらと親しいLittle Shawn(リトル・ショーン)の客演で多額のギャラが約束される話を知人を介して受け、ニューヨークのタイムズスクエアにあるQuad Recording(クワッド・レコーディング)というスタジオへ向かいます。
建物に入ると、中からはBiggieの付き人であるラッパーLil’ Ceace(リル・シース)の声が聞こえてきて、その建物にはBiggieやショーンがいると知り安堵し、建物へ入っていきます。建物の中に入るとなにやら軍服を着た男たちが自分たちに近づいて来ているのが見えましたが、その軍服スタイルがBiggieの出身であるブルックリンスタイルであったことから、Biggieの仲間だろうと特に気にせず、スタジオに向かうためエレベーターへ乗り込みました。すると軍服を着た男たちが2pacと同じエレベーターに一緒に乗り込み、2pac一行に銃を突きつけます。2pacも所持していた銃をとっさに抜こうとしましたが先に撃たれてしまい、その男たちに身につけていたリングやゴールドチェーンを根こそぎ取られてしまいます。2pacが被弾したのは頭、腕、股間へ計4発。
被弾後2pacはなんとか意識があり、これ以上被害を受けないために死んだフリをして襲撃犯が立ち去るのを待ちました。男たちが立ち去った後、自力でなんとかエレベーターのボタンを押しスタジオへと向かい、Biggieやショーンがスタジオで録音中だったところ、彼らの介抱を受け病院へ搬送されます。Biggieらの介抱を受けるも、気が動転していた2pacはこの段階で襲撃事件にBiggieやショーンが関わっていることを疑い始めます。
事件後の2pacの変化
この事件の翌日、強姦容疑の有罪判決が2pacへと伝えられます。2pacの模倣さを矯正するため。と4年半の刑期が言い渡されます。保釈金は130万ドルと言われ、弁護人が工面しようとするも他の経費などを相殺していくため時間がかかり2pacはしばらく刑務所内での生活を余儀無くされます。
2pacはその間、詩の書き溜めと、当時影響を受けていたイタリアの思想家であるマキャベリの研究に時間を費やすことになります。ただ、刑務所内でも襲撃事件のことが頭から離れず、自分たちを襲撃した連中が着ていた軍服のスタイルがBiggieの出身であるブルックリン・スタイルであったことなどから、落ち着いて考えれば考えるほどBiggieたちが仕組んだのではないか?と思うようになります。
そして刑期が1年経とうとしていた頃、その気持ちは完全なものとなり、自分を守ってくれるものは何ひとつない。と考えるようになります。そして服役中に結婚したKeisha Morris(ケイシャ・モリス)を通じ、当時西海岸で絶大な人気を持っていたDeath Row Records(以下:デス・ロウ)のCEOであるSuge Knight(シュグ・ナイト 以下:シュグ)へ「金が無いから助けてほしい」とメッセージを送ります。
シュグも2pacを獲得する絶好のチャンスだとロサンジェルスから遠く離れたニューヨークへとすぐに駆けつけます。そこでは面会をしただけではなく、デス・ロウと契約し作品をリリースするという交換条件で2pacの保釈金を工面する約束までします。2pacは二つ返事でその交換条件を快諾し、シュグは自身の弁護人に保釈の手続きを進めさせます。
そして、ここから東西抗争が激化していくことになります。・・・・・続く。
前編はここまでにします。後編ではデス・ロウと契約した2pacの出所後の活動や、東海岸とのBEEF(=ヒップホップ用語で「揉め事」「喧嘩」の意味)の内容などを紹介していきたいと思います。
最後までご覧いただきありがとうございました。